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執筆者の写真MAL

存在の認知と表現者としての責任

被写体があった上でのポートレート…

可能な限り撮り手側である自分のエゴや意思を削ぎ落とし被写体そのものの描写を優先しようと意識していますが、最後にシャッターを切るのは撮り手側である自分自身であり、そこに表現者としての全ての責任が発生するため、結局は自分のエゴや意図が必要となってきます。

今の僕にはその葛藤の落とし所がポートレート撮影のコンセプトそのものとして相応しいのかもしれませんが…

被写体となる方々に共通点がありそれを表現することを目的とするならば、更にはその目的を達成するために複数の人がそこに関わっているのなら、自分の責任の在りどころを可能な限り他者を優先させる方向へと移行することも必要なのかもしれないと考えたりもします。

ただ、それらの要素全てを含めて「存在とメッセージ」が成立(完成)するのもまた事実。

なぜならそこで表現しようと葛藤している僕自身の存在そのものを、僕自身が認知したいと感じているからなのです。

今取り組んでいる「存在とメッセージ」というコンセプトは撮り手である僕自身の存在(一人称)から、被写体となる人の存在(二人称)、あるいはそれらポートレートを見る人の存在(三人称)まで派生していき、そこに関わる全ての人々を巻き込みながら「存在認知」を意識的にも無意識的にもそれぞれの個々の中で感じ眺めていただければというコンセプトで進化させてきました。

ポートレートを通して皆さんが「存在の認知」を実際に感じていただけたなら「メッセージ」は伝わったのだと、僕はそう考えています。

ライフワーク、あるいはコンセプトを打ち出す為の根底に在る「存在認知」と「自己一致」は、人が生きる上で心が一番欲しているであろう「存在の認知」と、幸せな人生をおくることに必要な「自己一致」。

そこに関わる僕の葛藤は生まれて53年経過した今も尚、写真を通しての人との関わり方や社会との繋がりそのものの中に在ります。 ※ 撮り手側の責任、表現者としての責任という部分で1つ例を挙げてみます。

例えば、作品について第三者からのネガティブな質問や評価があった場合、本来なら僕はそれに対してネガティブな捉え方はしません。

その言葉はそれを発したその人自身の言葉であり価値観であるし、僕に向けられたものではないと捉えます。

またネガティブな言葉を強く押し付けられた場合には、それに対して僕自身が反応したり何かをするということも考えていません。

むしろその言葉を発した人が、その言葉の背景にあるご自身の感情と一度きちんと向き合い対話した方がいいと、僕はそう考えています。

しかし自分の作品を完成させる迄の過程において、僕が自分自身に対して何かしらの嘘をついていたり自己不一致がある場合には上記の通りではなくなります。

第三者から作品に対して何かしらのネガティブな言葉や評価があった場合には、僕自身が自分自身と向き合わなければならなくなります。

僕が考える撮り手側の責任、表現者としての責任というものは、自分自身の作品作成の過程において、きちんと自分と対話をし嘘をついていないか、今ここの自分の全てを受け入れているかどうかという、自分自身に対しての「存在認知」と「自己一致」が深く関わっています。

その部分をきちんとクリアしていなければ、僕は表現者として、またはひとりの人として、作品を見る人と純粋に対話することができません。

僕の責任とは、そういうものだと認識しながら日々シャッターを切っています。


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